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華岡青洲

第四回
1:『先祖書・親類書』から読み取る華岡青洲とその一族

-紀州藩に提出した書類の控え-

2:『華岡先生略傳』などによる青洲の人柄

今回は本家に残されている首題の2冊を紐解き青洲の一族と青洲の伝記を読み解きます。

1:『先祖書・親類書』から読み取る華岡青洲とその一族

1冊目は文化2年(1805年)10月に差し出されたものです。(青洲自筆の控え文と思われます。)どこに差し出したのかは文章から紀州藩宛と推察します。
青洲は前年の文化元年に本邦初の乳がん手術に成功しています。(世界初の全身麻酔下手術)
時の藩主徳川治寶は朱子学の学問所(1790年)や医学館(1792年)を創設するなど聡明な藩主でありました。
その殿様に享和2年=1802年9月1日初の謁見をしております。 青洲が京都遊学から帰郷し、父が死去して春林軒を継いだ天明5年(1785年)からこの時までに門人は23人を数えており、更に近傍、他国からの患者も多数訪れていて徐々に名声が広まってきた為、謁見がかなえられたことと推察します。

この先祖書にて青洲の履歴を確認し、士分に取立て、帯刀を許可したものと推察できます。注A

注2

青洲はその後文化10年(1813年)4月15日在村のまま小普請格に取り立てられた。
更に文政2年(1819年)8月2日小普請医師に取り立てられ「勝手勤」として、1ケ月の前半は和歌山登城在勤、後半は春林軒のある西野村にて民を診察することとなり、晩年74歳の時、天保4年(1833年)には奥医師格になりました。

2:『華岡先生略傳』などによる青洲の人柄

2冊目は筆者不明ですが恐らく門人が作成したものと推察されます。

また、略伝以外のエピソードでは、宇津木昆台(1779~1848年)が編集した『日本医譜』という伝記集に以下の話が載っています。

更に先祖から伝わる話を父貞次郎(六代隨賢)から聞いた話として七代隨賢である雄太郎が日本医事新報1521号(昭和28年6月20日発行)に『華岡青洲を語る』と題して寄稿していますのでそこから引用します。
“或る男が陰嚢の中に腫瘍ができ形・大きさは睾丸と略々同じで3個のうちどれが腫瘍か解らなかった。流石の青洲もどれを摘出するか困った。「若い頃遊んだからこうなったのだ。今まで多くの手術をして治療してきたが、之だけは治療できない。お前を殺して自分も死ぬ。」と、応じた白鉢巻の数名の門人が快刀を抜いて周囲から切りかかった。その男は驚き色を失った時、局部を凝視していた青洲は陰嚢を探りそのうち1個縮み上がらないものを摘出した。”
“或る日魚釣の針を誤って嚥んで食道の上部にかかった男児が訪れた。門人みな針についている釣糸を引っ張るばかりで児は泣き出し益々取り去ることができない。青洲は直ちにそろばんを取り寄せ之をこわしその珠の数個を釣糸に通して適時糸を引っ張り手元の珠を少し内部に押して針を抜き取った。門人皆感歎したという。”

第2回に記した通り春林軒は明治15年に閉塾しましたが、六代隨賢は医師を継がなかったけれども青洲の書・医塾関係書・治療関係書・薬品調合書・手術器具・手術着・眼鏡等の歴史的なものを大切に保管し(注9)七代隨賢に伝えています。また上述の言い伝えなど家業の家訓として遺すべきことなどには腐心していたようです。ただ、貞次郎の幼少時明治15年に相次いで父母とも死去していて(母;旧暦3月12日、父;旧暦7月24日、貞次郎は当時4歳)祖母(四代隨賢妻)のヤエ(文化6年~明治37年)に育てられたとのことですので、言い伝えなどは祖母か旧門人等から聞いたことでしょう。
また貞次郎は長男雄太郎はじめ3人の息子全員医学を学ばせ医家としての華岡家を現代に繋げています。

 注1: 河内国石川郡中野村字華岡に在したところから華岡と称す。
 注2: 立像の掛け軸と第2回の四代隨賢の座像を参照(五三の桐の紋付)
 注3: 治兵衛となっている書物が多い。この人が商人となって堺・大阪拠点で全国を商いし、結果、全国から門人や重病患者が青洲のもとに来たようだ。又(注4に述べる)乗如法印が数多く高野山の普請をしているが、(注5に述べる)鹿城とともに堺商人・大阪商人の数多くの寄進を受けて実施したものといわれている。
注4-1: のち高野山正智院40代住職となった。(正智院の先代39代は乗如法印といい高野山真言宗358世の管長になった。)今般高野山正智院から栄傳改め良應の掛け軸の写真を送っていただいたのでその画讃の釈文を記す。(青洲と顔立ちがよく似ている。)
注4-2: 丹崕は乗如法印の雅号である。
注5: のち華岡鹿城。堺の分塾を青洲から任され、その後大坂の中之島に春林軒の分塾として合水堂(がっすいどう)を主宰する。緒方洪庵の適塾(10代目の塾頭は福沢諭吉)とは目と鼻の先ともいえる200mくらいの距離にあり、当時は互いに華岡外科と緒方内科として血気盛んの若い塾生が競っていたようだ。
注6: 第1回の注1の通り直道である。
注7: 第1回の注3を参照してください。
注8: 士族及び帯刀の許可日については、著者不明の略伝のこの項の年月日(享保2年9月1日)と、本人自筆と思われるこの回の冒頭本文注Aの文化2年10月以降と考える文献保存会の推察とがあるが、なお、裏付ける調査が必要と考える。
注9: 七代隨賢はその後多くの品を和歌山県立医科大学に寄贈した。(第2回青洲逍遥参照)

文責:華岡青洲文献保存会 代表幹事 髙島

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