19975

第十九回

師弟の篤い交流 その3
- 手紙での治療方法の確認 -

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。
不治の病と思っていた病気に苦しむ患者は全国から次々と青洲の下を訪れます。
各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。

そして弟子の卒業後も師との交流は続きます。
第18回に続き今回もそうした真摯な交流の中から治療に関する師弟間の書簡のやり取り(と言っても手紙ですので青洲宛の物しか本家に残っていません。)をご紹介します。

A.弟子の楊 玄友から青洲へ

注1

次は当時江戸において有名な漢方医の原 南陽から青洲門下に入門希望の自身の門人の紹介手紙をご紹介します。この文中に上記に紹介した楊玄友の名前が出てきます。

B.水戸藩医から青洲へ入門希望者の紹介

〈青洲逍遥第13回〉で紹介した本間玄調も青洲門下の前はこの原南陽に師事しています。ところで原 南陽のエピソードとして次の話があります。〈 父は水戸侯の侍医であり、若いころ京都で学び江戸に戻った。或時水戸徳川侯が重い病気になり諸大家の医師が手を尽くしたがとうとう危篤になった。家臣たちが困り果てて鳩首会合をし、当時はまだ町医者ではあったが、南陽が大いなる識見のあることを知っていた一人の家臣が推薦して呼び出した。彼は水戸侯に誰もが考えつかなかった劇薬を処方して見事全快させた。このことで水戸侯は南陽を信頼して侍医に取り立て500石を与えたのである。〉 注2つまり南陽は親譲りの侍医ではなく実力で侍医になったのです。
またこの書簡の中に漫画家で有名な手塚治虫(彼自身も医学博士であった。)の先祖が出てきますが、この人は門人録に名前がないので、結局華岡にではなく緒方洪庵の適塾の門人になったようである。注3 
ともあれこの原南陽からはAで紹介した楊 玄友と鈴木寿庵注4の2名が推薦を受け、 また次の書簡から楊 友的も推挙していると思われますので少なくとも合計3名が入門していることになります。
更に原南陽は自身も江戸で名高い名医であるにも拘らず青洲に次のような書簡を送り、あくなき医術の道を追求しています。

C.水戸藩医(原 南陽)から治療の質問

次は青洲ではなく長男雲平あての書簡です。

D.弟子の三村玄澄から葛城(長男雲平)へ

この文面から、青洲存命中ですが、すでに長男雲平が門人から相談を受ける立場にいることが解ります。なお、この門人は尾張藩の奥医師になったことが次の写真で確認できます。

ところで彼が差し出した奥伝誓紙の写真とその現代文訳を次に紹介します。

写真の通り奥伝の日付は文政9年4月となっており、また門人録による入門年月日は文政9年2月27日(写真)であり、この人はわずか2ヶ月程で門人を終了していることになっている。もともと経験を積んだ医師であって、青洲医塾においては麻酔術などの一部を習得の為に入門した人かもしれない。

長男雲平宛の手紙を紹介しましたが、今度は雲平から父であり、師である青洲への手紙をご紹介しましょう。

E.息子の雲平から父青洲へ

長男雲平はすでに医師として活躍しており、和歌山城下の医院を青洲の名代として運営していました。現代に生きる筆者の感想ですが、惣領息子からこのような質問がきたら跡継ぎの成長を確かめることができて嬉しいでしょうね。
この書簡の返答ではありませんが、青洲から雲平宛への治療処方を指示した書簡もありますが別の回でご紹介します。

しかし雲平は天保3年8月19日33歳注5で死去しました。青洲が73歳の時でした。
青洲の大変な落胆ぶりが想像できます。
長男が青洲より先に亡くなったので、華岡家の4代隨賢は次男の修平が、〈青洲逍遥 第18回〉でご覧いただいたように鷺洲という名を名乗り、青洲亡き後を継いでいます。

注1:
文化10年門人録写真
注2:
名著出版 昭和54年発行「近世漢方医学書集成18巻 原 南陽」を参考にした。
注3:
福沢諭吉著の『福翁自伝』の文中に “その時江戸から来ている手塚という書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は(適塾で)流行の半髪(総髪は額の月代を剃らずに髪全体を伸ばして結ぶもので医師などの髪型。これに対して月代を剃った髪型のこと。)で太刀作りの刀を差しているという風だから、いかにも見栄えがあって立派な男であるが…” というくだりがあるがこの手塚のことであろう。
注4:
文化12年門人録写真
注5:
長男「雲平」の生年は大正12年発刊の呉秀三著作『華岡青洲先生及其外科』の年表では寛政元年1789年との記述があり、また昭和39年発刊の医聖華岡青洲先生顕彰会(森慶三他2名)編集の『医聖華岡青洲』の年表では享和元年1801年とあり、どちらが正しいか深く研究されてこなかった。
だが〈青洲逍遥 第4回〉で紹介した当文献保存会の発見資料【文化2年10月に藩に差し出された青洲自筆の親類書】には「倅 恒太郎 6歳」との記載がある。青洲本人自身が惣領息子の年齢を間違えることはないはずであり、また当時の年齢は数え年であるので、息子の生年は逆算すると寛政12年1800年となる。また没年は本家の過去帳を見ると「天保3年8月19日33歳」の記載があるので天保3年は1832年なので33歳で死去ということが立証される。また生年も同時に立証されたことになる。この親類書と過去帳の2点の資料から長男雲平の生年は寛政12年1800年であることが確定されたことになる。

ところで親類書で娘8歳となっているのは誰であろうかと思い、親類書と過去帳の検討をさらに進めると意外なことが判明した。この時8歳の娘の生年は逆算すると1798年(寛政10年)であり、一方過去帳には「寛政10年6月4日俗称小弁」という記載がされており、長女の「小弁」が死去している。ではこの娘は誰であろうか。青洲には他に娘が3人存在しているがそのうち年齢的に該当しそうなのが長男雲平の妹とみられている「かめ」がいる。この人の夫は「準平」といい青洲の養子となった。準平は「南洋」と号し青洲の弟「鹿城」の亡きあと大阪合水堂2代目を継いでいる。
過去帳では「かめ」は明治2年1869年3月26日死去となっており、1798年生まれであると歿年齢は72歳となり年齢に不自然はなくなる。つまりこの人は雲平の妹ではなく2歳上の姉であり、青洲夫妻から見ると長女「小弁」の死と次女「かめ」の誕生が1798年の同年にあったことになる。

※書簡解読は前回に続き〈北海道立文書館 元総括文書専門員〉の山田博司先生。

(文責 華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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