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華岡青洲

第十七回

師弟の篤い交流 その1
- 手紙での治療方法の確認 -

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。
不治の病と思っていた病気に苦しむ患者は全国から次々と青洲の下を訪れます。
各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。

そして弟子の卒業後も師との交流は続きます。
そうした真摯な交流の中から治療に関する師弟間の書簡のやり取り(と言っても手紙ですので青洲宛の物しか本家に残っていません。)をご紹介します。
今回はその1回目として、青洲の弟子との交流手紙の前に、青洲の師である吉益南涯(よします なんがい)との交流をご紹介します。

A.吉益南涯から青洲へ

《青洲逍遥 第1回》で紹介した、青洲の京都遊学時代の漢方(内科)の師である吉益南涯(1750年~1813年文化10年6月13日歿)との交流です。

書簡の往復

次に掲げるように青洲は手紙にて初めての乳がん手術を報告したり、病人に対して漢方の教えを請うたりしております。

手紙1青洲が師に乳がん手術の報告をした後の師からの手紙

手紙2吉益南涯から青洲への漢方処方伝授

青洲から自身の患者の症状を問うているようで、その返答としての薬の処方などのやり取りもしております。
又《青洲逍遥第9回 注2》で既に紹介した通り、青洲は19歳下の弟良平(鹿城)を勉強の為京都に出し、自分同様に吉益南涯に師事させています。

吉益南涯と青洲の師弟としての良好な関係が続いていることが覗えます。

B.処方の論戦(南涯VS青洲)

『険証百問』

しかし病人の治療に関しては漢方医(内科医)でもある青洲も一家言があり、師・吉益南涯の考えや処方を時に反論しております。
この事を記した毛筆写本の一部が本家に残されています。『険証百問』という書物です。
これは前回《青洲逍遥 第16回》で紹介した中川脩亭(春林軒門人録に天明8年1788年に入門記載があり。)が原著作者であり、春林軒の後、寛政5年1793年に門下に入った京都の吉益南涯及び華岡青洲の両名に病人の症状とその処方について100の質問をし、双方が回答したものです。

答えが違っている吉益南涯と青洲の処方を見て頂きましょう。

第1策

また一部分同じで、一部分違う処方のものもあります。

第3策

当然同じ処方の答えもあります。

第22策

C.吉益東洞(南涯の父)の医療哲学の解説

『万病一毒の説』

また、本家に残っている青洲自筆と思われる原本の写真をご覧ください。

これは南涯の父の吉益東洞が唱えた難解な万病一毒の説ですが、青洲は弟子に次のように解説しています。注2

※Aの書簡は〈北海道立文書館 元総括文書専門員〉の山田博司先生に解読依頼した。
※B・Cの漢文は宮田成生先生の解説・訳による。
※Cの本文4行目最後の〈説文〉は原本では張り紙をして消している。

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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