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華岡青洲

第十八回

師弟の篤い交流 その2
- 手紙での治療方法の確認 -

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。
不治の病と思っていた病気に苦しむ患者は全国から次々と青洲の下を訪れます。
各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。

そして弟子の卒業後も師との交流は続きます。
第17回に続き今回もそうした真摯な交流の中から治療に関する師弟間の書簡のやり取り(と言っても手紙ですので青洲宛の物しか本家に残っていません。)をご紹介します。

A.弟子の久米純太から青洲へ

久米純太は門人録では久米純台の名で記載がある。文化8年入門。(注1

文中昨冬近江屋源兵衛母の乳がん治療をお願いしたとの話があり、乳がん姓名録の同母の記述を探すと文政2年9月27日に現出する。

よってこの書簡の発出年月日は文政3年正月16日と判明した。またもう1人の紹介患者の奈良屋治左衛門母は同じく文政3年正月21日と迅速に青洲の治療に来ていることがわかる。しかしこの患者は同年9月に再発し、更に文政4年5月22日に3度目の手術をしている。乳がん姓名録記載の3度の治療・手術は初出である。

B.弟子の楊 友的から青洲へ

次は水戸藩医である門人が卒業後診察を開始しているが、10年程前の幼児時の病気の予後が悪い人が患者で来たがどのように治療したらよいかとの青洲への相談をご紹介します。

楊 友的は文化10年入門(注2

C.弟子の廣田禄圓から鷺洲へ

次は昨今の世界情勢とも無縁でない興味深い手紙をご紹介します。
時代は飛んで青洲の子供の4代隨賢にあてた書簡です。

廣田禄圓は天保5年入門。(注3)・廣田隆平は嘉永4年入門。(注4

この手紙からは外様大名の黒田藩主の福岡藩が長崎(幕府直轄領)の防備を担当していることが解り興味深い。長崎近隣は江戸時代以前に切支丹大名で有名だった大村藩や江戸時代の切支丹一揆が勃発した島原藩などで江戸幕府としては外様大名のほうが信用できたのでしょう。(同じく外様大名の鍋島藩主の佐賀藩と1年交代であったようです。)
また、親子での入門は門人録ではたびたび見られるが、手紙の証拠として資料の価値が高いものと考えられる。

D.弟子の廣田禄圓から鷺洲へ

次にこの手紙の文面から推察できる、廣田から鷺洲への手紙に同封されたと思われるロシア使節から長崎奉行所への書簡の内容を述べている大変興味深い書簡を紹介します。

ロシア使節の書簡中、筆者が記した赤色の棒線部分は、2022年2月24日にウクライナに侵攻したロシアが起こした戦争が、この回の草稿を執筆している現在、1ケ月を過ぎた4月になっても終結しない状況を目の当たりにして、勝手に時代を現代に重ねあわせ、
(---この書簡の嘉永6年は1853年で170年程前の出来事ですが---)
羊の皮をかぶった狼の口車にうかうかと乗らないで下さいねと念押しをしたい気持ちです。
―聖書ではなく、イソップ寓話の顛末ということも考えられますがー

注1:門人録該当ページ(名前の純台の台は俗字で署名している)

注2:門人録該当ページ

注3:門人録該当ページ

注4:門人録該当ページ

※書簡解読は前回に続き〈北海道立文書館 元総括文書専門員〉の山田博司先生。

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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