第二十回

青洲の人脈2
- 文人の書 -

書の披露第4回目として今回は青洲本人ではなく、青洲と交流のあった方の書を掲載し、その漢詩・言葉の出典と解説を試みよう。

1. 吉益南涯

最初は青洲の京都時代の師の書です。師の吉益南涯よしますなんがい(注1)が青洲に与えた書であろうと推察いたします。

2. 頼 山陽

次は全22巻の日本外史を著し、幕末から明治維新・昭和の世界大戦まで広く影響を与えた頼 山陽らい さんよう(注2)の書です。詩の内容からすると、青洲と一献傾けたが山陽が先に酔って帰り、そのお詫びに後日贈ったものでしょうか。

3. 野呂介石

紀州の画家・野呂介石のろ かいせき(注3)は自身の絵に漢詩を描いています。

更に手紙にもさらさらとスケッチを描いています。

4. 乗如法印

次は高野山の高僧乗如法印(注4)からの手紙です。見事な花押です。

次は青洲の立像に乗如法印が丹崕の雅号で詩を書いたものをご覧いただきます。

江戸時代は知識人の教養は漢籍の素養につきますが、青洲も多くの文人や高僧と交流していたようです。今回は青洲以外の人の書を見ながら、その交流の一端を想像しつつご紹介しました。

注1:
青洲の師である。詳細は〈青洲逍遥第17回〉参照のこと。
注2:
頼 山陽(1780~1832年)は大阪で出生し、儒学者である父が広島藩に登用されたため広島に移る。
その後『日本外史』22巻を47歳(1827年)で完成させて8代将軍徳川吉宗の孫の松平定信(1759~1829年)=寛政の改革を行ったもと老中首座=に献上。松平定信の評価により『日本外史』が天下に認められた。『日本外史』は源平の戦いから江戸幕府10代将軍までの通史で、軍記的物語としても市井で広く読まれた。そのなかの幾つかの漢詩は詩吟で有名である。

①川中島合戦での上杉謙信・武田信玄との戦いで上杉が夜、ひそかに千曲川を渡河したときの詩
〈 鞭声べんせい 粛粛しゅくしゅく 夜河よるかわわた

②明智光秀が織田信長を討った時に部下に発したと言われる〈吾敵正在本能寺(吾が敵は正に本能寺に在り)〉
注3:
野呂介石(1747~1828年)は青洲(1760~1835年)と同じ紀州和歌山の町医者の息子として生まれた。10歳頃より儒学者の伊藤長堅に学んだ。その後14歳のころに京都にて墨竹画を習ったようである。更に21歳の時に京都の南画の大家である池 大雅(1723~1776年)に師事し南画を習得した。
47歳の時に紀州藩に士官した(勘定奉行支配小普請5人扶持≒9石)。その後49歳で15石、53歳で20石、と順調に公務をこなして給料が増加している。更に調べると73歳で加増を受け25石となっている。老齢となって加増があったのは、絵師として有名になり藩主の目に留まったからか。
すなわち彼は公務の傍ら熊野・那智など紀州各地の自然風景を題材に絵画制作を行ったようである。
号は「介石」のほかにこの絵画の漢詩に記している「第五隆」などいくつかある。
また、年若い頼山陽とも密度の濃い交流があり野呂介石の絵に頼山陽が漢詩を記している。
さらに〈青洲逍遥第11回〉で紹介した国学者本居宣長の養子の本居大平とも交流があり互いに書・絵の贈呈をしているようである。
注3は『森 銑三著作集』の〈野呂介石〉の項を参考にした。
注4:
雅号は丹崕。高野山金剛峰寺 第358世 座主である。
青洲の弟良應が高野山に仏門入りをしており、高野山正智院の乗如住職の弟子であった。
乗如が金剛峰寺座主に就任するにあたり、良應が正智院第40代住職に指名された。〈青洲逍遥第4回〉注4参照のこと。

なお、書簡解読は山田博司様(北海道立文書館 元総括文書専門員)。そして書の解読は、小原道城書道美術館 宮田副館長様にご協力をいただきました。

只今開催中の特別展をご紹介します。

(文責 華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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