今回は所蔵する『彩色奇患之図』の一部抜粋をしてみたい。
この診療絵巻は巻末に画家の作者が戊戌孟夏と記しています。(画像1)
(画像1)
干支の戊戌は青洲の活動期からすると、1778年(安永元年)又は1838年(天保9年)になります(1838年の次は1898年(明治31年)ですが、第2回で記載した通り春林軒は明治15年に青洲の孫が死去した年を以て閉塾しております)。
1760年(宝暦10年)に生まれた青洲は、1778年の18歳の時にはまだ、父の手伝いをしていた頃でした。
この絵巻に載っている乳癌摘出手術はその時には、できていなかったことが証明できますので(『青洲逍遥』の巻頭に記載した通り最初の乳癌手術実施は1804年です)この絵巻の作成は1835年(天保6年)10月2日の青洲没後の1838年(天保9年)と特定できます。また孟夏(もうか)は旧暦4月です。(新暦では5月初旬~6月初旬で孟夏は初夏のことを指します。)
更に絵巻の中に張り紙で “和州野原村小林伊八娘十二才 乙巳の盆前に治療 鷺洲” という症例があり(画像2)
(画像2)
これは四代隨賢の鷺洲が、干支の乙巳=1845年(弘化2年)に施術したものを絵巻の空いている所に後から貼付したと思われるので、それ以前となり、この事からも『彩色奇患之図』は1838年に作成したものと考えられます。恐らく多年にわたり種々の手術時に立ち会いして描画したものを後に絵巻にしたものか、或いはその時々に弟子などの絵心のある人が累々と描写しておいたものを青洲先生が死去した後にその治療方法及び功績保存の為、この年に集大成として画家に描かせたと思料しております。
『彩色奇患之図』は殆どが患者の症例名・現住地・名前・職業・年齢などが記されています。
青洲の手術時の絵も載っています。(画像3)
(画像3)
青洲翁下刀而取粉瘤之膜塊也
紀州湯浅伊兵衛
青洲翁(おう)、下刀(げとう)して、粉瘤(ふんりゅう)の膜塊(まくかい)を取るなり。
紀州湯浅(ゆあさ)。伊兵衛(いへえ)。
この絵のメガネは鼈甲製で、現在青洲記念館(第2回を参照)に展示されています。
又、手術時に羽織を着ていますがこれは画家の装飾でしょうか。
昭和30年代まで本家に2巻所蔵していたようですが、もう1巻の絵巻は違う服装をしていたようです。(1巻は紛失したのではなく、某人に貸出したまま返却がされてないようです)
別図で、詳細に病状を記載している例を紹介いたします。(画像4)
(画像4)
〔標題〕
肉瘤
以下当保存会の学術顧問2名の先生の現代文解釈がありますので両方を載せます。
①
〔図題〕
青脈維絡纏達如図
其二
全形
〔図題の説明〕
青脈維絡(せいみゃくいらく)の纏達(てんたつ)、図の如し。
(静脈が皮肉の間に張り巡らされている様相は第二図の通りである)
※ この一行は行間が不自然に狭くなっており、原文の文章とは別である。
左側の患者図に付けられた説明文であるとみなされる。
※「青」は「静」に通じる。「青脈」は静脈のこと。
※「維絡」は皮肉の間の血管。
※「纏達」は張り巡らされていること。第二図に静脈の様相が描写されている。
②
(画像5)
(画像6)
〔標題〕
流注(るちゅう)
〔原文と現代訳〕
経二ケ月余 2ケ月余りを経(ふ)
奇哉妙哉 奇なるかな 妙なるかな
河州守口駅 注)河州は河内国
山原氏老母
年六十五
背骨がこのようになる迄の末期症状の結核患者は青洲の時代でも珍しい事のようですね。
既に田邉先生の学生時代(70年程前)にはこのような姿を見ることが殆どない程、結核治療は進んできたのでしょう。
それでも現在迄結核を絶滅できず、人類が克服できていない感染症の一例です。
文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島
初めて『彩色奇患之図』の全図をカラー撮影して現代の外科医としての視点で全症例を推察・解析・解説した前述の本を発行しております。 購入をご希望の方は保存会にご連絡下さい。
連絡先:華岡青洲文献保存会 事務局
E-mail:hozonkai@hanaokaseishu.com