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華岡青洲

第二回
『春林軒』発掘で判明した青洲の感染予防対策

青洲(せいしゅう)は父直道『二代隨賢(ずいけん)』の後を継ぎ医療施設で日夜病人を診察し、傍らいろいろな症例の治療研究や外科手術研究、また内科・漢方医・薬学者でもあったので外科手術時の患者の痛みを和らぐべく薬草による麻酔の薬を創れないかと研究し実験をしていました。
そしてある画期的な手術の後(注1)、飛躍的に門人が増え、江戸時代屈指の医塾(医学校)となっていきました。(注2) その名は春林軒(しゅんりんけん)といいます。

平成7年その跡地の発掘作業が行われ、驚くべき工夫が施されていた医院であったことが判明しました。

  1. すなわち当時は当たり前であった〔汲み取り便所→堆肥として2次使用〕という事を避け、
    病原菌増殖阻止二次感染対策の為、病人には1回1回携帯便器で排泄をしてもらいそれを一々捨てに行くという方式。

    「和歌山新報」平成7年12月7日付記事を引用。
    八代隨賢のスクラップ帳より転写

  2. このほかにも雨水の暗渠管による直接敷地外への排水方式。
  3. 2段構えの浄化槽の方式で台所・風呂・馬を洗った排水などの雑排水処理で医院全体が汚染しない・湿気によってカビなどを発生させないような環境づくり・衛生に全力を傾けた設計思想が随所に見られます。
    その方法は約5㎝の落差をつけて直径約120cmの2個の桶を並べ、最初の桶に流入した排水が溜まっている間にその汚物や固形物を桶の底に沈殿させ、上澄みだけをオーバーフローで次の桶に流入させ、そこで再び沈殿、浄化が繰り返されその上澄みを屋外に配水するというものです。(注3)

現代医学でも感染対策には細心の注意を払わなければならない究極の課題であり、その事は昨今の中国武漢から発生した新型コロナウィルスで世界中が経験していることですが、230年以上前の江戸時代の医療施設の建物で既に実行していた事は驚きです。
しかし国内で当時恐れられていた“コロリ”(コレラ)や痘瘡(天然痘)・麻疹などの疫病が時折流行していたことの歴史上の事実を鑑み、また工夫を重ねて作らせた医療器具の青洲遺品をみておりますと、

建物の感染予防措置も当然青洲は考慮し、最大の工夫と指示を出したと思います。なにより患者の病気を治し、かつ病人からの病原菌で他への感染を発生させないという彼の並々ならぬ執念が感じられます。

さて春林軒は青洲(三代隨賢)の後、青洲の次男(長男は青洲より早く32歳で死去)四代隨賢・鷺洲(ろしゅう)

(四代隨賢)

鷺洲の長男五代隨賢・厚堂(こうどう)

(五代隨賢)

と続き厚堂が明治15年40歳で死去したので、明治15年の入門者をもって医塾は終了しました。(因みに、六代隨賢・貞次郎は医者でなくて実業家の道を歩みました。)

のどかな田園に所在していたその旧建物は大正年間迄存続していましたが、
のち移築や取り壊しとなりました。

漢文の素養豊かな青洲はこののどかな土地の医塾で次のような漢詩を作っております。

現代に通じる医者心得ともいうべきこの漢詩は卒塾を迎えた門人に免許皆伝免状
とともに春林軒で学んだ医者のあるべき姿、心の持ち様の奥義を記す、卒業記念品として贈っていたようです。

入門年代別門人録で、稲川氏は文化9年3月23日の入門とわかる。彼は4年8ヶ月間塾生であったようだ。

その後貞次郎の長男雄太郎(七代隨賢)が慶應義塾大学医学部の2期生として大正13年に卒業後、市立札幌病院に赴任し(当時は北海道大学医学部ができたばかりで卒業した医師はまだおりませんでした。北大医学部100周年は2019年。)のち北大で医学博士の学位を取得し、数年後札幌で小児科医院を開業することになりました。(それ故華岡本家が札幌に在住していることになります。)

(七代隨賢)

昭和14年に青洲の玄孫である雄太郎がかの地に『華岡家発祥の地』の碑を建て

戦後になってからは紀州和歌山のみならず日本の輝かしい足跡を残した医師として、種々の動きが起こりました。

昭和27年のサンフランシスコ講和条約の発効により7年ぶりに“独立国”の地位を取り戻した日本に、昭和28年秋国際外科学会会長から日本の外科学会に次のような要請がありました。すなわち〔日本コーナーに顕彰すべき外科医を推挙して下さい〕と。
外科学会が日本コーナーの主賓として推挙したのは華岡青洲でした。
アメリカ合衆国シカゴ市のミシガン湖畔にある国際外科学会栄誉館に昭和29年顕彰されたのを皮切りに、(この栄誉館には医学の父として有名なヒポクラテスやナイチンゲールなど世界史に燦然と輝く医療分野の偉人が顕彰されています。ちなみに『看護の日』の5月12日はナイチンゲールの誕生日です。)

(ヒポクラテス像)

昭和32年には墓碑銘(注4)の和歌山県指定文化財の指定
昭和35年和歌山県立医科大学に『華岡青洲先生顕彰会』や『華岡青洲先生那賀町(現紀の川市)顕彰会』(後に『医聖・華岡青洲をたたえる会』と改称)が設立されるなど、医学界や現地和歌山県に於いて数々の波が起こり、多数の事業が計画実行されてきました。
また、昭和41年には和歌山県出身の小説家有吉佐和子が『華岡青洲の妻』を発表、42年に出版されそれをもとに映画・テレビドラマ・舞台などで披露され、一躍全国的に青洲の名前と偉業が知られるようになりました。

時を経て平成元年7月に上述『顕彰会』と『たたえる会』が合併し、『春林軒及び記念館設立準備会』が開催されました。同準備会はそのあと数年して『医聖華岡青洲顕彰会』として正式発足し、記念館設立の活動が始まりました。
(冒頭に述べた発掘作業は平成7年7月より遺跡調査として財団法人和歌山県文化財センターが那賀町教育委員会と上記顕彰会の委託を受けて実施しました。)
そのご尽力の賜物で医塾跡地に復元した【春林軒】と隣接地に建てられた設計家黒川紀章の設計による【青洲の里―華岡青洲博物館】は平成11年4月に完成しております。

関西にお出かけの折は和歌山県まで足を延ばして是非ご覧になって下さい。華岡家が寄贈しました(注5)青洲が使用した眼鏡や手術着、青洲が工夫をした医療器具など数々の品が展示されております。

所在:和歌山県紀の川市西野山473番地(最寄駅:JR西日本 和歌山線名手駅)

注1:世界初の全身麻酔による乳癌摘出手術…これは別の回に詳述予定
注2:門人については別の回に詳述予定
注3:1996年3月那賀町教育委員会「春林軒塾跡-遺跡の復元・整備に伴う発掘調査概報」を参照した。
注4:墓碑銘の全文は《青洲逍遥》の第1回をご覧ください。

注5:当初和歌山県立医科大学へ寄贈しその後大学から記念館へ寄贈(下記①、②参照)

県立医大事務局より送付された新聞記事

(文責:文献保存会代表幹事 高島)

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