第十二回

門人の活躍 (その1)

春林軒・総門人数は2063人(堺分塾・大坂合水堂を含む)
うち青洲(3代隨賢)時代1060人

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。
麻酔術や華岡流外科などを学ぶため、各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。


その数は、本家に残されている年代順門人録2冊注1を数えてみますと、上巻(安永9年1780年9月入門の下村了庵に始まり~文政12年1829年仲冬11日入門の林周平まで)で小計902人(張り紙追加をしている文化10年常陸・入野友専を含める注2)。
そして下巻(文政12年仲冬11日入門の林友輔に始まり~明治15年1882年5月27日入門の小山田竹次郎まで)小計1161人、総合計2063人となります。

また、乳がん手術が行われた文化元年1804年以前享和3年1803年までは32人。
文化元年は月日が記載されていないので手術前かどうか判然としませんが11人。
そして手術後(文化元年の11人を含めず)は青洲存命中(青洲逝去は天保6年1835年10月2日)まで1019人の数を数えます。
このうち最初の2名は安永9年・天明4年1784年入門なので青洲の父(2代隨賢)の弟子であり、青洲が京都から帰郷した天明5年以降が青洲時代の門人となります。
その総数は1060人(京都時代の友人格の天明8年の中川脩亭も含む)です。


【堺分塾の記載は堺門人として文化9年1812年4月初出。注3  その後鹿城先生門人の記載は文化10年1813年5月~文政6年1823年3月26日と合水堂門人と記載(文政6年4月7日~7月22日)の6人をはさんで文政6年9月26日まで。注4  大坂合水堂(がっすいどう)門人の記載は文政6年4月7日初出。注5  合水堂改め楽水堂門人の記載は天保2年1831年1月24日~天保3年正月15日。注6  その後天保3年1832年3月15日再び合水堂門人の記載。以後は合水堂門人と記載あり。注7   これらは青洲が弟の鹿城〈青洲逍遥 第9回参照〉に任せた医塾・医院である。鹿城が文政10年1827年死去の後は青洲の娘婿養子の華岡準平〔南洋〕が継ぎ、その後鹿城の3男の乙平のち良平〔積軒〕に継承している。】


堺から大坂への移転は門人録ではちょうどその頃の記載は鹿城先生門人とあるのみで、堺か大坂合水堂か判別できない。
しかし本家所蔵の鹿城墓碑銘拓本によると鹿城が38歳で大坂に移転したとあり、鹿城は安永8年1779年生まれ《青洲逍遥 第9回参照》ですので、計算すると文化13年1816年である。その墓碑銘の拓本の訳文を以下に示す。
(呉秀三著「華岡青洲先生及其外科」p108にも移転年が記載されているが、この拓本から判断したものと思料される。)

鹿城の墓碑銘拓本

また合水堂跡地に2015年建立した合水堂石碑でも1816年に大阪中之島に開設とある注9。則ち移転年は1816年(文化13年)と断定できる。
江戸時代は大坂、明治以後は大阪と表記した。

たくさんの門人の中から順次紹介していきます。まず、西の高弟です。

(かまだ げんだい せいちょう けいしゅう)

麻酔薬〔麻沸散まふつさん 麻沸湯まふつとう〕の用法を解説した

伊予の国(現愛媛県)大洲に生まれた鎌田正澄(寛政6年1794年~安政元年1854年)は文化9年1812年に青洲の門に入りました。注10 父明澄も玄台と号しているので彼は2代目玄台です。

愛媛大学医学部(現愛媛県立中央病院集中治療センター長・麻酔科部長)の土手健太郎先生は郷里の偉大な医師鎌田玄台を研究しており、『鎌田玄台研究1 麻沸湯論~世界最初の臨床麻酔の教科書~』と題して平成25年に出版しており、そのなかで青洲の麻酔術を玄台自身の門人に口述筆記させた『麻沸湯論』(天保10年1839年6月の年月が記されています。=青洲歿後の年次である。=第11回青洲逍遥で記述した通り、青洲自身は門外不出と言っていましたので、歿後に発行したものと思われます)の現代語訳及び英文訳を著しています。青洲は《青洲逍遥 第8回》に記したように乳巖治験録で最初の患者に自身の創薬による麻沸散を投与したことは書いていますが、実際の投与方法は書いていません。鎌田玄台はこの『麻沸湯論』でその使用方法を詳しく解説しております。まさに教科書です。
今般土手先生にご許可を得ましたので、その原文・現代語訳の全文を披露します。

又土手先生が発掘し・復刻著作した、玄台が天保11年(1840年)に著した外科治療症例集である『鎌田玄台研究2 外科起廃図譜~平成復刻版~』の術者の絵(右正面4図・側面2図)から土手先生が発案・発注して玄台の容貌をコンピューターグラフィックで再現した力作があります。その発想に驚愕しつつ再現写真も掲載します。

顔画像2(CGにより再現した鎌田玄台の顔)

 (『外科起廃図譜』より、鎌田玄台の治療場面絵図)
なお、『外科起廃図譜』には麻沸湯で麻酔を実施して手術した膝下下肢切断の図(全65図のうち第10図)が描かれています。
この手術年は不明ですが、『外科起廃図譜』の冒頭にある「序」で門人松岡が記した年が天保11年1840年であり、また1854年が鎌田玄台の没年ですので、青洲逍遥第13回で披露する本間玄調の下肢切断より随分早いことは間違いないです。(少なくとも16年以上前。)



青洲は本家所蔵の様々な患部治療絵図《青洲逍遥 第3回参照》を見ると、青洲は脱疽による足指部の切断は実施していますが、

彩色奇患之図より

下肢切断絵図がないところを見ますと、その手術は実施していないと思われます。
断定はできませんが、鎌田玄台の手術が全身麻酔下の下肢切断手術では日本最初でありましょう。また全身麻酔下手術の図を明らかに示すものとしては1846年に米国モートンによって行われたものが欧米でのもっとも古い図と言えますので、まさにこの1840年出版の『外科起廃図譜』こそが世界初の全身麻酔下外科手術図といえましょう。

外科起廃図譜より

注1:門人録2冊表紙
注2:門人録
注3:門人録
注4:門人録
注5:門人録
注6:門人録、
楽水堂の額写真

青洲自筆

注7:門人録
注8:
〈青洲逍遥 第9回〉で鹿城の帰郷を〔入門定式〕の資料から1804年と推測したが、この墓碑銘でも26歳帰郷と記されているので、計算すると1804年に該当し第9回の推論は正しいことになる。
注9:合水堂碑写真

なお、この碑文では門人総数は約2200人としているが、本稿冒頭の2063人はあくまで本家所蔵の年代順門人録2冊に記載がある門人数であり、碑文との数の異同は検証していない。
またこの碑の除幕式では、華岡慶一(医療法人春林会華岡青洲記念病院理事長)が華岡家代表として挨拶している。

注10:門人録

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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