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華岡青洲

第十三回

門人の活躍 (その2)

春林軒・総門人数は2063人(堺分塾・大坂合水堂を含む)
うち青洲(3代隨賢)時代1060人

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。麻酔術や華岡流外科などを学ぶため、各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。
その数は、本家に残されている年代順門人録2冊を数えてみますと、上巻小計902人そして下巻小計1161人、総合計2063人となります。

前回は西の高弟をご紹介しましたので、引き続き今回は東の高弟と言われる本間玄調を取り上げます。

(ほんま げんちょう そうけん)

彼の出版した著書により青洲の偉業が広く伝搬した

のちに水戸藩医となる本間玄調(文化元年1804年~明治5年1872年)は常陸国小川村の出身で文政10年1827年3月25日に入門しています。注1この時本間は24歳で、青洲は68歳でした。本間玄調の入門時の請書が本家にありますので写真と訳文を記します。

本間家は玄調の2代前より水戸藩の藩医(漢方医)である原 南陽に師事しています。玄調も文政3年1820年、17歳で江戸の南陽門下に入りましたが、同年8月に南陽が死去したので、その期間は僅か数か月であったことでしょう。その後《青洲逍遥 第11回》で述べた杉田玄白の子、立卿の門下に入りました。江戸の杉田立卿門下にて研鑽の後、上述のとおり文政10年に青洲門下となりました。その2か月後シーボルトに種痘を学ぶため長崎に赴き2ケ月程逗留したようですが、その頃岳父道偉にあてた書簡の中に「蘭医シーボルトと申す者、すこぶる奇妙なる事も有之候えども、華岡の上に出候人物とは存じ申さず候」とありその後また青洲のところで研鑽を積んでいます。また天下第一の英物と申候は華岡一人かと奉存候と師の青洲を絶賛しています。注2


彼はその著作として『瘍科秘録』『続瘍科秘録』『内科秘録』など多数を残しており、この出版された著書注3により青洲が唱えた『活物窮理』の金言注4や全身麻酔による手術もたくさん紹介され世の中に広く華岡流外科・麻酔術が知れ渡りました。

その『瘍科秘録』の本間玄調自身の序を現代語訳にします。

また彼は脱疽患者の下肢切除手術を行っております。
前回(第12回)で紹介した鎌田玄台『外科起廃図譜』(天保11年出版)の中で同様手術が描かれておりその絵の説明では患者に麻酔をしており、患者のほかは術者1人のみ描かれております。
(ただし、鎌田の患者は蝮に咬まれたのであって脱疽ではありません。)
しかし呉秀三著『華岡青洲先生及其外科』(大正12年発行)に収録されている下肢切除手術の絵は男3人で患者を押さえています。
絵師が従来の麻酔なしの阿鼻叫喚を想像して描いたとも思われますが、或いは術者の指示で麻酔中でも体が動かないように助手に押さえさせているのかもしれません。

この下肢切断術は『続瘍科秘録』に詳細に手術年・患者名が記載されており、それによると安政4年(1857年)4月5日水戸藩士岡部辰蔵35歳に麻沸湯を与えて手術する様子を克明に記述しています。
以下に岡部氏の手術の詳述及び手術患部の詳細図を記します。

注1:門人録
注2:
《》で括ったところは『近世漢方医学書集成21巻本間棗軒』の矢数圭堂の巻頭解説文「華岡流外科の大成者本間棗軒」より引用
注3:
『瘍科秘録』『続瘍科秘録』の表紙
注4:

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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