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華岡青洲

第二十四回

書の披露5(青洲縁者の書)

第5回・10回・15回・20回に本家所蔵の書の披露をしてきましたが、第5回目として今回は、青洲本人ではなく青洲の縁者の書をご覧いただきましょう。
①青洲が大阪に開かせた分塾〈合水堂〉の塾長である華岡鹿城 注1
②鹿城亡き後の〈合水堂〉を支えた青洲女婿(鷺洲の義兄)である華岡南洋 注2
③青洲の長男雲平注3
④青洲亡き後を継いだ次男である4代隨賢の鷺洲注4
各人の書と、その漢詩・言葉の出典と解説を試みよう。

① 華岡鹿城(中洲・文献)

② 華岡南洋(4代隨賢 義兄)

③ 雲平(青洲長男)

④ 鷺洲(4代隨賢・青洲次男)

注1:
青洲の19歳年下の末弟で青洲の養子にもなっている。
中洲は号、文献は名である。堺に分塾を出し、その後文化13年(1816年)
大阪中之島に『合水堂』を開設した。(詳細は〈青洲逍遥第⒓回〉参照)
注2:
南洋は名を準平*1といい青洲の養子になった
更にその後青洲の次女かめ*2〈長男雲平及び次男修平*1の姉〉と結婚し南洋と号した
青洲の弟鹿城の亡きあとの大阪の分塾『合水堂』の二代目を継いでいる

  *1:〈青洲逍遥第1回〉青洲墓碑銘の末尾にある二平とは修平と準平のことである
  *2:〈青洲逍遥第19回〉の注5を参照
注3:
青洲存命中に33歳で死去〈青洲逍遥第19回〉の注5を参照
注4:
名は修平、青洲亡き後四代隨賢を継いだ

『乳巖治験録』は誰が筆記したか

天理大学附属天理図書館所蔵の『乳巖治験録』の筆記者は青洲本人であるといわれています。
本稿筆者が数年前に国会図書館で青洲自筆書の有無を尋ねた処、同館係員からは「青洲自筆書は天理大学附属天理図書館所蔵の〈乳巖治験録〉のみです。」との回答を得た。
(以下同書を天理本という)

本稿筆者はそれ迄に華岡本家の所蔵品に青洲自筆であろうと推量できるいくつかの書物を発見していたので、それらが自筆書かどうかの確認は是非とも必要であろうと考えていました。
それ故青洲の自筆掛け軸は今までたくさん披露してきました。

ところで、青洲研究を長年続けている弘前大学医学部松木明知名誉教授は、この天理本の筆記者(筆録者)は青洲ではなく注1
弟の華岡鹿城ではないかという説を近年唱えております。注2
その通りなのかどうか?

青洲の自書は過去3回(第5・10・15回)にわたり披露してきましたので、今回は鹿城の書をたくさんご覧いただきました。

松木氏は弟の鹿城ではないかと推理していますが、今回ご紹介した鹿城の書をご覧になって如何でしょう。鹿城の書を見てみますと彼の書の特徴がわかると思いますが、明らかに鹿城の字体の癖と天理本注3の癖は異なっていますので、松木氏は鹿城の書については見ていないか、参考にはしていないようです。

本稿筆者は『乳巖治験録』は〈青洲逍遥第9回〉に登場した文化元年1804年入門の今城養賢が筆録者ではないかと推察しております。
彼は23年後の文政10年1827年に春林軒の知事という要職で、のちの高弟本間玄調の入門時の貴重な書状に再登場します。注4
つまり彼はその間、ごく近隣の村(紀州伊都郡名倉村=わずか9Km東隣注5)から春林軒の門を叩き、新入り門人で〈入門定式〉の発起人に名を連ね注6、 その後古株として若き門人の良き兄弟子を続け、そして塾の知事という要職になったまさしく青洲の薫陶を受けた秘蔵っ子ともいうべき人物です。
そして本稿筆者は、字が上手で、若いながら漢籍にも通じ、難しい熟語も比較的堪能な彼が〈抜擢されて青洲の祐筆を務めていた〉と考えています。

何故新入り門人である彼が〈入門定式〉の発起人に名を連ねたのかを掘り下げて考察してみました。
明確な資料の裏付けはありませんが、次のような場面が容易に想像できました。
文化2年(1805年)10月青洲は親類書を紀州藩に提出している 注7
その中にも記載があるが、長男雲平(この書物で恒太郎)は当時6歳
今城養賢は文化元年(1804年)入門 注8
文化元年10月13日最初の全身麻酔下の乳がん手術実施 注9
〈入門定式〉作成は文化2年1月 注10
入門以前の少年の頃から彼は春林軒塾に出入りしていて門人達から雑用などを言いつかっており、
またその利発さゆえに華岡家の家族からも可愛がられ、雲平とも遊んでいたかもしれません。
また門人達からは漢籍等色々な手習いを授かっていたとも考えられます。
そのくらい昵懇の間柄であれば、入門早々〈入門定式〉の発起人に名を連ねた事にも特に違和感はありません。
〈青洲逍遥第9回〉に記載した〈入門定式〉が本稿筆者の推論通り(第9回の注3参照)今城養賢の筆記だとすれば、それに記載の次の字の癖が酷似しています。(サンズイの字が無いのは残念です。)また乳癌手術の時期と彼の入門時期とも符合していることを考察した時、入門したての彼が青洲先生の指名を受けて口述筆録をしたのではないかと思われます。
漢字や用法の間違いが多々見られることは、口述筆録による事と彼の若さゆえの未熟さが表れていることかと肯けます。本文の訂正は青洲自らの指摘によるものと思料します。

下記に書体の類似を列挙します。

筆者は、筆跡鑑定人ではありませんので、天理本の乳巖治験録が青洲の自筆であるかどうかについては断定できません。
しかし上述した通りの字体・書体の類似については強い関心が残ります。
また〈筆録者は今城養賢ではないか〉という筆者の推論も、今城本人による筆写書物がこの回を執筆している現在までには発見できていないのであくまで仮説です。
誰が筆記(筆録)したのかは今後の研究課題となりましょう。

注1:
*松木明知論文〈「乳巖治験録」は青洲の自筆ではない〉
   日本医事新報No.4038   2001年9月15日
   P26~32
*松木明知著『華岡青洲の新研究』2002年10月13日限定300部発行
   製作;岩波出版サ-ビスセンター
   P120~123,126~142
注2:
*松木明知著『華岡青洲と「乳巖治験録」』2004年3月17日限定300部発行
   製作;岩波出版サ-ビスセンター
   P17~18,48~49,
*松木明知著『華岡青洲と麻沸散 麻沸散をめぐる謎』2006年8月20日発行
   発行;真興交易(株)医書出版部
   P150~152
*松木明知著『華岡青洲研究の新展開』2013年4月28日発行
   発行;真興交易(株)医書出版部
   P128~129
注3:
天理本については
 *松木明知著『華岡青洲の新研究』2002年10月13日 限定300部発行
  (製作;岩波出版サ-ビスセンター)の巻頭に写真が掲載されています。
 *松木明知著『華岡青洲~その医学と思想~』2022年4月28日発行
  (発行者;真興交易(株)医書出版部)の巻末に英文訳と写真が掲載されています。
 *全文写しを参考にするには天理大学付属天理図書館にお問い合わせください。
  (稀書目録 和漢書之部 第三 1649 照会番号 498-イ1)

 *なお、全文現代訳文は〈青洲逍遥 第8回〉をご覧ください。
注4:
  上記現代語訳は〈青洲逍遥 第13回〉を参照のこと。
注5:
注6:
  〈青洲逍遥 第9回〉参照
注7:
  〈青洲逍遥 第4回〉参照
注8:
注9:
  〈青洲逍遥 第14回〉参照
注10:
  〈青洲逍遥 第9回〉参照

なお、書の解読は、小原道城こはらどうじょう書道美術館 宮田副館長様にご協力をいただきました。

(文責 華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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