19974

第十一回

青洲の人脈 (その1)

《青洲逍遥 第8回》で紹介した文化元年の乳がんの治療により、その波紋は全国に大きく広がります。 不治の病と思っていた病気に苦しむ患者は全国から次々と青洲の下を訪れます。 各藩の藩医やその子息も続々と春林軒の門をたたき、門人に名を連ねてきます。

そのような情勢の中、人体の解剖図である『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』の著書として有名な杉田玄白から書状が届きます。


杉田玄白からの手紙全形

玄白はこの書状の中で「今年80歳になった」と述べているので文化9年1812年の書簡でありましょう。すでに功成り名を遂げ医学界の重鎮である杉田玄白はなぜ腰を低くして53歳の青洲に書簡を書いたか―――
青洲研究のバイブル的著作の大正12年発行の呉秀三著『華岡青洲先生及其外科』P66で先生(筆者注:青洲のこと)の名声がいかに我が国全体に広がり至るかは当時蘭学の大家と言われたる杉田玄白が先生を敬慕のあまり送った手紙によって察する。と記している。つまり、江戸にまで聞こえてきた青洲の偉業をたたえて称賛の手紙を送ったものと考えられてきた。

―――しかし、以下に紹介する書誌により、これは彼の息子杉田立卿をして青洲が実施した全身麻酔の施術方法の習得、そして乳癌手術の施術を教えてもらう必要があり手紙を出したと思われます。

青洲の弟子たちは医塾卒業後彼らの出身地に帰り、全身麻酔で乳がんやその他の手術を行った記録があります。注1 加賀の宮河順達は青洲の医塾春林軒注2を卒業して郷里の金沢に帰りその後数年して江戸に行き今度は杉田玄白の門人になったようです。注3-1
そして宮河は青洲から学んだ全身麻酔下の乳癌手術を患者に実施したものと思われます。注3-2
それを見て杉田親子は是非青洲にこの秘術を教えてもらい、使用させてもらいたく手紙を書いたものと思料します。
《青洲逍遥 第2回》で紹介した門人の稲川梁策宛免状をご覧ください。
この中に“家伝の秘法はたとえ親友であっても伝えてはならないものである”と書いてあり、これは青洲が吝嗇というわけではなく、一歩間違えば命に係わる危険な麻酔術をみだりに吹聴しないように門人を戒めたものです。

恐らく宮河は自身の免状の内容を杉田玄白に伝え、青洲の弟子ではない杉田立卿に教えて良いものか青洲に手紙で上申し許可を得る算段をしていたところ、そのことを知った玄白が礼儀の為、先に青洲に手紙を書いたものと思われます。

その後に、許可を与えた書状の控えは華岡本家にはありませんが、青洲が玄白の要請に快く承諾したものと思われます。
そのことは玄白の手紙から1年たった文化10年に杉田立卿が乳癌手術をしたことで判ります。その実証が次に示す『療乳嵓記』注3―3です。

※原文に“謾遊雑記”とあり、そのまま記述した。正しくは“漫遊雑記”である。

国学者で有名な本居宣長もとおりのりながはまた医師でもありました。
享保15年1730年伊勢国松坂の木綿商である町人の父の下で生まれ、23歳で医者を志して京都に遊学をしました。その傍ら古事記や日本書紀など日本古来の古典を読み漁り研究していました。28歳(宝暦7年1757年)のとき松坂で医院を開業しています。
このころ賀茂真淵かものまぶちの古代文学の研究としての枕詞の論考書『冠辞考』に影響を受け、私淑しておりました。宣長34歳の時、宝暦13年1763年5月25日江戸から伊勢参りに来た真淵を訪ねて直接教えを受けました(2人の邂逅はそれ以後の国学の大きな発展の転機となり、この夜を松坂の一夜と名付けている)。
その翌年に賀茂真淵に入門しましたが江戸と松坂ですので主に文通での講義です(現代の通信教育でしょう)。宣長はこの頃から古事記の研究に邁進し『古事記伝』全44巻を35年かけて完成させます。
英邁な紀州徳川第10代藩主徳川治寶の治世の3年目の寛政4年1792年宣長63歳の時、紀州藩士に登用となりました。一介の町人を藩士に登用したのは、藩主治寶の祖母が賀茂真淵の進講を受けていて門人の宣長を知っていたことも関係していることでしょう。(和歌山城下在勤ではなく紀州藩領であった伊勢国松坂〈現在の松阪〉在住のままでした。これは藩医となった青洲が田舎で診察を続けることを許された勝手勤に似ています。)

さて宣長は寛政6年・11年藩主に召されて和歌山城内で御前講釈を行っていますが、この時に随行させた優秀な弟子である町人の稲懸大平を、宣長は寛政11年1799年養子(息子春庭が1794年失明した為)にする許可を紀州藩に願い出て、藩から許可されています。この時、稲懸大平改め本居大平は44歳(宝暦6年1756年生まれ)です。(注4)
享和2年1802年大平は紀州藩士本居家の家督相続をし、国学者の本居家を継いでいます。

文化3年1806年紀州藩は江戸幕府より『紀伊続風土記』の編纂を命じられ儒学者の仁井田好古(後に青洲の墓誌銘の作者となります-青洲逍遥 第1回参照)を総裁にして取り掛かりました。
ところで紀州藩領内には記紀神話・万葉集に散見される地名が多く、また延喜式神名帳に登載された神社が多く分布しています。それ故漢文に精通した儒学者だけではなく日本の古典に精通した国学者が必要でした。このため大平は藩主から『紀伊続風土記』の編纂に与するため和歌山在住を命じられ文化6年1809年に松坂から和歌山に移住しています。注5

さて、《青洲逍遥 第1回》の(注5)で〈青洲は、地域の農民のために干ばつ防止の大きな溜池を作った〉と書きましたが、そのため池が次の写真です。

溜池の名前は垣内池かいといけといいます。
そのほとりには青洲自作の歌を刻した大きな自然石の歌碑があります。

水みたば心をこめて田うへせよ  池の昔を思ひわすれず

《紀の川市西野山にたくさんの溜池がありますが、ひときわ大きい溜池があり、その池の広さは約三千坪もあります。文化5年、青洲が50歳の時、この付近の百姓たちは干ばつと税金との二重苦にさいなまれ、窮迫のどん底にあったのです。青洲はこの様子を見て農民たちを救わねばならないと思いました。藩の許可を得て私財をなげうち土木工事を起こし農民たちに手間賃を払い完成させました。農民達はこの賃金で税金を納めました。 》
(財団法人青洲の里発行「華岡青洲先生その業績とひととなり」から引用)

この事を称えて本居大平から贈られた書が残っています。

注1:
各地に伝搬した青洲門下生の活躍の詳述は今後の回で紹介の予定。
注2:
注3-1,3-2:
参考文献 松木明知著《華岡青洲と「乳巌治験録」》2004年発行
注3-3:
同上著書の巻頭の写真『療乳嵓記』(本文漢文)を現代文訳にした。(著者の弘前大学医学部 松木明知名誉教授によるとこの小冊子は、岩波書店の「図書総目録」や「古典総合目録」にも披見されず、またこれまで発表された杉田立卿関係の論考においても全く言及されていないので、巻頭に全頁をカラー写真で紹介し、その有する医史学的意義について検討したいと前置きして同上の本に【杉田立卿と乳癌手術】の章を書いている。)本稿筆者はこれ以外に杉田立卿が乳がん手術を実施したとの書誌は披見していない。
華岡本家所蔵の杉田玄白から華岡青洲宛の手紙の内容に対をなす大変貴重な書誌であり、この書誌の発見は青洲研究で最大級の特筆すべきもので、松木名誉教授の発掘・所持に深く敬意を表するものである。

余談であるが、(がん)の字は大漢和辞典によると(がん)と同じであり、 また(がん)と同じである。現在使用している病名の(がん)の字源であろう
注4:
本居宣長記念館ホームページより年代等参考にした。
注5:
和歌山市立博物館 平成14年展示会カタログを参考にした。

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

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