65698
65698

華岡青洲

第十四回

青洲の治療実戦記 (Ⅰ)
『乳巖治験録』 の詳細 (その3)

藍屋 勘の手術日の検証秘話

《青洲逍遥 第8回》で世界初の全身麻酔下手術をした年月日を文化元年1804年10月13日注1と記しましたが、実は青洲研究のバイブルともいえる呉秀三著作の大正12年発行本
『華岡青洲先生及其外科』では文化2年1805年10月13日となっています。

『乳巌姓名録』では藍屋勘の日付が文化元年10月既望(=16日)となっていますが、『乳巌治験録』に10月13日に手術をしたことが書かれている事で、呉氏は姓名録の日付を初診日と考え、治験録の日付を1年後(文化2年)の手術日と断定したものと思われます。

この日付が昭和46年まで確定日付として連綿と続きました。

しかし乍ら、昭和8年1月21日発行の関場不二彦著作『西医学東漸史話 下巻』の “華岡青洲の一代” の項の文中241ページにすでに文化元年10月13日と記述があります。

関場氏はその根拠を示していませんが、彼は札幌市立病院院長経験者で、《青洲逍遥 第2回》にて既に述べたように7代隨賢の華岡雄太郎も同病院医師であったことから親交があった注2事と何か関係があったかもしれませんが、この日付は学説として定着しませんでした。

ではどのような発見でこの文化2年が文化元年に変わっていったのでしょうか。

青洲研究者の弘前大学医学部の松木明知麻酔科医師はその日付の疑問を昭和46年8月7日発行の『日本医事新報』(週刊)誌上に概略次の通り発表した。

“乳癌の患者が1年も放置されてから手術が行われたことに対する疑問と併せて、術後何年間生存したかを調査したく、その出身地である五條市の教育委員会へ生家の有無及び菩提寺の名その他を問い合わせたところ、偶然にも五條市の講御堂寺の過去帳の中にその名を見出したとのご返事を戴いた。これによると利兵衛の母「かん」は文化2年2月26日に歿している。春月智了信女がその法名である。”

松木氏はより詳しく『麻酔』昭和47年3月(第21巻第3号)誌上でこの件を発表しています。

また別な渉猟結果では「那賀町華岡青洲をたたえる会」(青洲逍遥 第2回参照)昭和47年6月発行の書籍『華岡青洲』の文中、毎日新聞の記者が昭和46年3月に菩提寺の森本孝順住職注3と面談してその日付を教えて戴いたと書かれています。その一節を抜粋します。

“那賀町史編纂委員会や那賀町華岡青洲をたたえる会でも、かねてから北海道札幌市の華岡家その他各方面に、史料を求め続けていた。ところが、たまたま昭和46年3月毎日新聞社五条通信部の稲田敏雄記者が、五條市の律宗講御堂寺住職森本孝順長老と面談していた時、同寺の過去帳に「春月智了信女、文化2年2月26日・北之町藍屋利兵衛母」とあるのを発見したと聞き、従来の手術日とされる文化2年10月13日以前に、すでに藍屋利兵衛の母勘が死亡している事実に疑問を持ち、五條市長田中勇次郎氏にもその旨を告げた。やがて田中市長から郷土史家北一夫氏を紹介された稲田記者は北氏に調査を依頼し云々”


さて上述本に菩提寺住職に直接面談したと書いてある稲田氏と連絡が取れないかをこの章を書き始めた2021年2月に毎日新聞大阪本社S編集局長に問い合わせたところ、稲田氏は既に退職されているが91歳の現在もお元気で奈良県在住であることが判明し、筆者は当時の経緯を直接尋ねました。その後手紙で詳細を頂きましたのでそれを披露します。

“その前にお断りして置きますが、何しろ丸50年(半世紀)前の取材でしたのでその後、異動・転勤・整理の繰り返しで肝心の取材ノートが見当たりません。記憶をもとに述べさせていただきます。”との断りの後以下の話が続きます。

《昭和46年(1971年)3月のある日拙宅へ講御堂寺の森本孝順住職(故人。当時67歳。律宗本山奈良唐招提寺長老。)から「うちの寺で貴重な資料が見つかった。見に来ないか。」と電話がかかってきたのが始まりでした。急いで寺へ駆けつけると庫裏で待っていたご住職は机上に古い過去帳と、当時五條市が発行の郷土史誌『大和五條』を並べて、やや緊張の表情。一見で百数十年の歳月を経ただろうと思える和紙の過去帳で、『文化二丑年…』の文字が目に入った途端にびっくりしました。これは華岡青洲先生が初めて手術を成功された患者藍屋お勘の過去帳で、法名・命日とも、明確に書かれてありました。
昭和生まれの私が「お勘」と出会った瞬間でした。
ご住職のお許しで写真撮影もしました。
「庫裏の古文書類を整理していたら、奥のほうに眠っていたのだ。」と判り易く説明、ご教示を下さいました。話し終えると、森本長老は「だが、年代がこれまで文献で伝えられてきたのと、手術年代に差異がある。疑問が多いので、歴史専門家に検証してもらうべきだ。その結果、正しい年代の確定が出るまで新聞報道は控えるように。」とかなり厳しい口調でおっしゃいました。稲田はこの時の森本長老のご心境を「過去帳が正しい」と確信していると思いました。稲田は同長老の直言に従い田中五條市長を通じて和歌山県粉河町の郷土史家北一夫氏に年代検証を依頼し、北氏から『過去帳の命日』が正しいと回答を得たので最初の判定通りの記事を報道しました。(その時の北氏からの回答書簡は稲田が保存している。)注4結局3月中旬に出来上がった原稿の掲載が1ケ月余り遅れました。

稲田記者は「過去帳を持っているのは森本長老で、長老の指が写っています。」と解説しています。

前述で第1報は「昭和46年3月のある日」としておりますが、そのある日は春のお彼岸前だったと思います。森本長老はお彼岸に備えて庫裏の整理をしておられたのだと考えられます。長老は古代史から現代史までの史学研究に熟知しておられました。これ迄(過去帳発見迄)華岡青洲の偉大な医学史についても関心がおありでして、特に『年代差』を問題にしておられたと後になって知った程です。その時にお勘の命日を記した過去帳が見つかったのでその際の感動はいかばかりかと推察できます。 さて、長老はその感動をいち早く田中勇次郎五條市長へ連絡されました。同市長は文化財保護を司る同市教育委員会へ再点検と年代究明を依頼された、という筋書きになります。》

取材ノートがなくても実際に直接面談をした方であるからこそ表現できるその時の感動・興奮が50年の時を超えて昨日の事のように記者の筆力であざやかに再現されていますね。

さて以上のことから間違いなく最初の発見者は青洲の史学研究に造詣が深い森本長老注5であり、一般社会に周知をした第1号のスクープは毎日新聞であることがお判りでありましょう。(内容は“世界的大ニュース”だと確信した稲田氏が奈良支局から本社に送稿したが残念ながら全国版ではなく奈良・和歌山両県の地方版扱いの記事になった為、広く周知されたとは言い難いが…。稲田氏も本稿筆者への第2信の手紙で「両県向けの結果でがっかりしました。あの時本紙〈全国版〉でもっと堂々と大見出しをつけて大きく掲載しておれば〈大スクープ〉になり医学界にも広く知られていたのに…と残念でなりませんでした。」と書いています。)注4に書簡コピー写真を載せましたが、これは本稿筆者にあてた第2信に同封されていたもので、(稲田氏が必死に探してやっと見つけたと言っていました。)2021年10月18日に到着したものです。北氏の書簡から稲田記者は昭和46年3月22日に北氏宛に手紙を書いておりますので、前述した最初の手紙の通り、3月中旬に原稿を予定稿として作成していたという稲田氏の記憶(なんと50年前の出来事の記憶!)が正しい事になります。

一方松木氏の第1報である昭和46年8月7日付日本医事新報への短報は、彼が医師としての視点を以て考察しそこから導いた疑問点の解決の為、五條市教育委員会へ問い合わせたという事ですので誠に素晴らしいことであります。注6
丁度その時分森本住職が五條市長に伝え彼から教育委員会へ指示・下命がすでに下されていたことと時期を同じくしているのはただ驚くばかりです。

東京帝大教授である呉秀三氏(日本医史学会昭和2年創立時初代理事長)が唱えた大正12年からの定説である手術年月日の変更は簡単ではなく、新聞記事発表だけではなかなかできないところを、日本医史学会の当時若手会員の松木氏(昭和40年1965年弘前大学医学部卒業⇒現在同大学名誉教授)が当時の定説を疑問視し、いち早く手術年月日の新しい説を唱え、論証して今日の確定日付である文化元年10月13日を導いた事の功績は多大なものがあります。注7

注1:
公益社団法人日本麻酔科学会が2016年10月にこの日を《麻酔の日》と制定しました
――《青洲逍遥》のトップページのポスター参照――
注2:
関場氏から雄太郎宛の手紙は数通現存している
また同氏の前述著作p281に“玄孫なる華岡雄太郎氏を介して図巻及び5・6冊を借用し得てこれが謄写に従事し 云々”と記している
注3:
森本孝順師(明治35年1902年11月17日生まれ~平成7年1995年6月19日歿)
僧歴 講御堂寺住職;昭和15年1940年~平成7年1995年
    律宗管長・唐招提寺81世長老;昭和21年1946年~平成7年1995年
業績 律宗総本山であり鑑真和上が759年に開基した唐招提寺は明治の神仏分離令による
   廃仏毀釈運動で荒廃していたが 森本住職が“昭和の中興”と称される復興再建をし長老
   となった
注4:
この手紙の中で北氏は冒頭3月22日付稲田書簡を受け取ったが 病気で遅れ4月20日返信になったことを詫びている ここで約1ケ月のブランクがあり結局新聞報道は4月29日誌面となった
注5:
和歌山市立博物館‘92秋季特別展『近世日本医学と華岡青洲』図録(平成4年10月24日発行)で青洲の4行詩の書を森本孝順師が所蔵していることを記している。
注6:
松木氏は2002年10月発行の著作『華岡青洲の新研究』で講御堂寺の過去帳を平成6年(1994年)と平成8年の2回実地調査したと述べ藍屋家の系図等著している
注7:
日本医史学雑誌第19巻2号昭和48年6月発行(昭和48年4月10日受付)誌上での松木氏の《華岡青洲による最初の全身麻酔の期日について》と題する論文で記述

勘さんは重病の中どのように青洲のもとを訪ねたかを探るため、現代の地図を広げてみたところ奈良県五條市のJR駅から和歌山県紀の川市名手駅まではJR和歌山線で12駅約28Km所用時間40~50分、また車では約1時間となっています。

当時は当然電車や自動車はありませんので①徒歩②駕籠③馬④家族の助けなどの手段でありましょうが、本人が重病の中③馬は乗り慣れていなければ病人にはきついかもしれません。また本人が脚気を患っていましたので注8①1人で徒歩にて訪れたという事はないでしょう。そう考えれば②駕籠かあるいは④家族が背負うなど助けながら訪れた、というのが妥当と思われます。当時の人々にとって病人を背負っても、たとえ平坦ではない道だとしても30Km(約8里)は1日の徒歩圏内でしょう。
ここで平凡社から発刊したばかりの「幕末明治大地図帳」で検証したところ五條から青洲の春林軒の在る西野山平山までは紀の川(当時は紀伊ノ川と称していた)沿いの殆ど平坦な道であることが判りましたので、勘さんが訪れた旧暦8月末頃(新暦10月初旬)注9では、朝出発してから途中休憩を何回か挟んでも日暮れ前に到着したものと考えられます。

①和歌山県側
ピンク矢印:紀伊ノ川 黄色矢印:西野山

②奈良県側
ピンク矢印:吉野川 黄色矢印:五條

※現代地図にて 右:五條 左:西野山

勘さんの60歳という年齢また重病人であることを鑑み、1人旅ではなく家族(おそらく息子か)が引率してきたことは想像に難くないでしょう。

という推論を書いていて、もう一度地図をよく眺めたところ、大和(奈良県)五條から紀州(和歌山)西野山へは川を下ってくればより速いことに気が付きました。紀の川(奈良県側は吉野川の名称)は五條からは下り船で随分早く着くでしょう。
そこで川下りの資料を調べたところ、平成9年に市立五條文化博物館で『吉野・紀の川が取り持つ縁』という副題で華岡青洲展が開催されたことが判明しました。

やはり川は早い移動手段でした。同展の図録で次のような一文がありました。注10
『今回の特別展企画にあたって、市内在住者から1つの証言を得ることができた。それはかつてその人の祖母から聞いた話として、祖母の祖母(つまり証言者から5代前)が華岡青洲の手術を受けたことがあり、その際には新町村(今の五條市本町・新町付近)の船着き場から船で川を下り、平山(筆者注:華岡医塾の春林軒所在地)へ赴いたとの事である。』
勘さんは同じように五條から吉野川(紀の川)を船で往復したという推論を立ててよいかと思われます。
どの位の時間で川下りができたかは地元の方からの情報があれば幸甚です。

注8:
《青洲逍遥》第8回の乳がん治験録本文を参照
注9:
《青洲逍遥》第9回の手術の助手は誰かの注5を参照
注10:

(文責:華岡青洲文献保存会代表幹事 髙島秀典)

Page Top
Copyright©Hanaoka Seishu Memorial Hospital All rights reserved.