第一回
青洲の生い立ち・業績

第1回は紀州徳川家の藩校講官の仁井田好古(儒学者・漢学者)の書いた青洲の生い立ちや業績を詳しく記している墓碑銘の紹介です。
この墓碑銘は、和歌山県紀の川市にある華岡家の墓所の入り口付近に建てられています。
奥のほうに各人の個々の墓があります。青洲の墓はもちろん父直道(二代隨賢)、母の於継や妻の加恵、四代隨賢である次男鷺洲の墓も単独にあります。

注1:直道
注2:8人
注3:(大和見立改め)大和見水
注4:青洲の死後万延2年(1861年)大隅からの入門者1名有り(国別門人録より)

注5:青洲は、地域の農民の為に早魃防止の大きな溜池を作った。(これは別の回に紹介)
注6:3男4女 (7人)
(注1・2・6は系図より解釈し過誤の為訂正)

注3は以下の注釈を入れます。
この「見水」は「見立」の過誤ではなかろうかとの説があるので資料で補完してみよう。
呉秀三東京帝国大学教授は大正12年著作の『華岡青洲先生及其外科』14ページで、〈見水は青洲が京都に遊学した天明2年(1782年)の2年前に死去している。よってその養嗣子の見立=天明2年時33歳=に学んだだろう〉また、同著作15ページで「見立モ後ニ見水ト称セシカ」と述べている。
当方の資料から裏付けを探したところ、以下の事柄を検出した。
見立が78歳で死去した文政10年(1827年)の5年後の天保3年(1832年)に国別門人録に和泉国 岸和田家中 大和見水の名が見られる。

この事から、1780年死去の大和見水を初代とし、見立が2代目見水そして門人録に載っている人が3ないし4代目見水とみることもできよう。この説をとった場合は、墓碑銘の大和見水は過誤ではなく2代目を指していて、天保6年の碑設立時は大和見水の名が伝えられていた事になる。天保3年に門人として子或いは孫(呉の同上著作14ページでは子〈文化12年1815年生まれ〉としているが、それでは2代目の66歳の子となる。この人は入門時17歳であるから孫の方が年齢は妥当とも考えられる。)が入門しているので、その僅か3年後に過誤をする筈がないと思われる故、この説が優位になろう。 ただし、当文献保存会は資料・門人録の明示をして推論を述べることだけにする。

(文責:文献保存会代表幹事高島)

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